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第二章 理性の距離――近くて遠い上司

作者: 海野雫
last update 最終更新日: 2025-12-05 19:00:39

 プロジェクトが正式に始動してから、三日が経った。

 颯は自分のデスクに向かいながら、意識の端で常に春海の存在を捉えていた。彼の席は、颯から斜め前方に五メートルほど離れた場所にある。声をかけようと思えばかけられる距離なのに、その五メートルがひどく長く感じられた。近いようで、遠い。

 春海は今、モニターに向かって何かを打ち込んでいる。時折、眼鏡を押し上げる仕草をする。その横顔は、いつも通り無表情だ。何を考えているのか、何を感じているのか、まるでわからない。

 見えているのに、届かない。

 まるで透明なガラスの壁が、二人の間にあるようだった。触れようとすれば、冷たい表面に指先が当たるだけ。決して、向こう側には行けない。

 その距離感が、五年前と何も変わっていないことに気づいて、颯は小さく息を吐いた。

 朝のミーティングは九時半から始まった。会議室に集まったチームメンバーを前に、春海は壇上に立ち、新プロジェクト「ARIA」の開発スケジュールと各チームの役割分担について説明した。

「このプロジェクトは、従来の音声認識モデルを超える精度を目指す。各自の専門領域を最大限に活かしてほしい。質問は随時受け付けるが、まずは自分で調べる習慣をつけてくれ」

 声は低く、落ち着いている。感情の起伏がほとんど読み取れない。大学時代に聞いた声と同じだ。あの頃から春海は、理性で感情を完璧に制御していた。

 颯はメモを取るふりをしながら、その横顔を見つめていた。眼鏡の奥の目は、モニターの数値を追うように冷静だ。誰かが質問をすると、春海は一瞬だけ相手を見て、必要最低限の言葉で答える。無駄がない。まるでアルゴリズムのように。

 会議室の窓から差し込む午前の光が、春海の輪郭を淡く縁取っている。その光景が、大学時代の研究室の記憶と重なった。あの頃も、春海はいつもこうだった。理路整然として、隙がなくて、誰にも心の内を見せない。

 ペンを握る指先に、無意識に力が入った。

 ミーティングが終わると、春海は真っ先に会議室を出ていった。颯と目が合うことは、一度もなかった。

 自席に戻り、颯はパソコンを立ち上げた。タスク管理ツールには、すでに春海からの指示が届いていた。

『高橋さん。音声データの前処理モジュールを担当してもらう。仕様書は添付ファイルを確認。不明点があれば質問するように』

 文面は事務的だ。「高橋さん」という呼び方が、胸の奥をちくりと刺す。

 大学時代も、春海は颯のことを「高橋」と呼んでいた。素っ気ない呼び方。でも、時々――本当に時々だけ――「颯」と下の名前で呼んでくれることがあった。二人きりで研究室にいる時や、深夜まで残って作業をしている時。そんな時だけ、春海の声は少しだけ柔らかくなった。

 今も「高橋」だ。変わらない。でも、その変わらなさが、かえって切なかった。

 あの頃の春海は、今よりも少しだけ柔らかかった。研究に行き詰まった後輩たちに、黙ってコーヒーを差し出すような人だった。言葉は少なくても、気遣いは確かにあった。

 今の春海にも、その片鱗はあるのだろうか。

 颯には、わからなかった。

 添付ファイルを開く。仕様書は詳細で、過不足がない。春海らしい、と思った。論理的で、無駄のない構成。読み進めるうちに、彼の思考の輪郭が見えてくるような気がした。

 ――やっぱり、すごい人だ。

 素直にそう思う。同時に、その「すごさ」が自分との距離をさらに広げているようにも感じた。

 斜め前方の席に目をやる。春海は自分のデスクで、別の資料を読んでいるようだった。その背中はまっすぐで、どこか孤独に見えた。

 午前中は仕様書の読み込みと、開発環境の構築に費やした。隣の席の同僚、中村が声をかけてくる。

「高橋、昼飯どうする?」

「あ、うん。行く」

 中村は同期入社で、颯とは入社当初からの付き合いだ。気さくで、社交的。颯が無理に明るく振る舞わなくても、自然体でいられる数少ない相手だった。

 社員食堂に向かう廊下で、中村が小声でいった。

「新しいプロジェクト、どう? 春海部長、噂通りの人だったな」

「噂?」

「知らないの? あの人、社内で『氷の王子』って呼ばれてるらしいよ」

 颯は足を止めそうになった。

「……何それ」

「仕事はできるけど、プライベートは一切不明。誰とも深く関わらない。飲み会にもほとんど来ない。で、顔がいいから女子社員にはモテるんだけど、誰も相手にしないんだって」

 中村は笑いながらいったが、颯は笑えなかった。

 氷の王子。その言葉が、春海の本質を言い当てているようで、同時にまったく見当違いにも思えた。

「高橋は大学の先輩なんだろ? どんな人だった?」

「……普通だよ。研究熱心で、後輩の面倒見がよくて」

「へえ、意外。今の印象とだいぶ違うな」

 颯は曖昧に頷いた。違う、とは言い切れなかった。春海は昔から、他人に心を開かない人だった。ただ、颯に対してだけは、ほんの少しだけ違った気がしていた。

 それは錯覚だったのかもしれない。

 自分だけが特別だと思い込んでいただけかもしれない。

「そういえば、前の研究所でもかなり有名だったらしいね。論文の引用数がすごいとか、学会で賞を取ったとか」

 中村が続けた。颯は黙って聞いていた。

 春海が優秀なのは、大学時代から知っていた。でも、改めてそういわれると、彼との距離がさらに遠く感じられた。

「それにしても、あれだけ優秀なのに、どうしてあんなに冷たいんだろうな。まあ、天才ってそういうもんか」

 中村は軽い調子でいった。颯は曖昧に頷いた。

 春海の冷たさには、理由があるのだと思う。

 優秀だから、周囲との距離ができてしまったのかもしれない。誰も彼の本当の孤独を理解できないから、心を閉ざしているのかもしれない。

 大学時代、颯は少しだけ、その孤独に触れた気がしていた。誰にも見せない弱さを、ほんの一瞬だけ垣間見た気がしていた。

 けれど、それは錯覚だったのかもしれない。

 食堂の列に並びながら、颯は自分の甘さを噛み締めていた。

 窓の外では、四月の陽光が街路樹の若葉を照らしている。新緑の季節だ。すべてが新しく始まる季節。でも、颯の心は、五年前のあの夜から止まったままだった。

 午後になると、チーム全体でのキックオフミーティングが行われた。春海は各メンバーの役割を再確認し、スケジュールの詳細を説明した。

「高橋」

 名前を呼ばれて、颯は顔を上げた。

「はい」

「前処理モジュールの進捗は、週次で報告してくれ。問題があれば早めに相談するように」

「わかりました」

 それだけだった。春海の視線は、すぐに次のメンバーに移った。

 特別扱いはしない。当然だ。ここは職場で、春海は上司で、颯は部下だ。大学時代の関係など、何の意味もない。

 わかっている。頭では、わかっている。

 それでも、胸の奥がざわついた。あの声で名前を呼ばれるたびに、五年前の記憶が蘇る。研究室で、二人きりで、春海が「颯」と呼んでくれた夜のことを。

 ――もう、終わったことだ。

 颯は自分に言い聞かせた。終わったことだ。始まってすらいなかったのだから。

 ミーティングが終わり、各自が作業に戻る。颯はデスクに向かい、コードを書き始めた。集中しようとした。春海のことを考えないようにしようとした。

 でも、意識は勝手に斜め前方の席を追ってしまう。

 春海は自分のデスクで、何かの資料を読んでいた。時折、眼鏡を外して目頭を押さえる仕草をする。疲れているのだろうか。それとも、何か考え込んでいるのだろうか。

 颯には、わからない。

 わからないことが、もどかしい。

 大学時代、春海の傍にいた頃は、もう少しわかった気がしていた。彼が何を考え、何に悩んでいるのか。言葉にしなくても、空気で感じ取れた気がしていた。

 今は、何もわからない。

 五メートル先にいる春海の横顔は、まるで別人のようだった。いや、違う。別人なのではない。ただ、颯の知らない五年間が、彼の輪郭をより鋭く、より冷たく研ぎ澄ませたのだろう。

 空調の音が、低く響いている。キーボードを叩く音、電話の呼び出し音、誰かの話し声。オフィスの喧騒の中で、春海の存在だけが、妙に鮮明に感じられた。

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